無有好醜(むうこうじゅ)の願

大無量寿経中の48願中の4願。阿弥陀如来となる前の法蔵菩薩が発した願。その意味するところは、「たとい私が仏と成り得ても、浄土においてもろもろの人たちの形が同じでなく好(よ)き者と醜き者とに別れるなら、私は仏に成らぬ。」というものである。浄土の美というのは、一元の美であり、好(美)・醜の二元の世界がなくなるようにとの願である。一元の美を不二の美ともいう。柳宗悦はわれわれの世にある、力のある者・ない者、才能のある者・ない者、美しい者・醜い者という二元論的な世界をうち破り、皆が同じでなく、違っていながら全てが美しいという境地での仕事ぶりをここから説いた。現実に存する茶碗の大名物「喜左衛門」と呼ばれる井戸茶碗はそれを実現しているというのだ。この井戸茶碗は、300年前無名の朝鮮の陶工の手になるもので、無心にあわただしい生活の中から生まれたものだ。民衆の雑器として沢山作られたものが、茶器に転用され大名物になったものだ。以来この方、時代時代の作家がこれを超えようと挑んでいるがこえられていない。だから、こういえる。井戸茶碗は井戸茶碗ではない、これを井戸茶碗と名づけよう。となるのだ。私は私ではない、これを私と名づけよう。わかった?

金剛教より
般若波羅蜜は即ち般若波羅蜜にあらず
これを般若波羅蜜と名づく

ぶん:ほりき

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